第12回糸賀一雄記念賞 授賞式にて
☆はじめに
月並みなことですが、私個人はこんな立派な賞に値するものではありません。なんてんを始めて、障碍のある人たちと共に働き暮らそうと向き合って27年が経ちましたが、本当に共に働けた、共に生きれたという日はそう多くはありません。
彼らに対しいまだ、気持ちの入らない対応や冷ややかな態度を取ったり、からかい気味に茶化してしまったり、なかなか成長することが出来ません。
反して、そんな私を見捨てもせずに付き合ってくれた「なんてん」や「ワイワイ」で働く障碍のある人たちには感謝です。そしてもちろん、彼らを支えてくれたスタッフにも感謝です。
特にここ数年みんなが、自信を持って、誇りを持って働いてくれています。もちろん個人にもチームにも、課題や悩みはあります。しかしそのことへの挑戦も含め、それぞれの仕事に誇りを持って、生き生きと働いてくれている障碍のある人を見ていると嬉しくなります。
今回の受賞はそんなチームに対して与えていただいたものと思っています。またさらに広く言えば、そのチーム、「なんてん」や「わいわい」や「鳩の街」を支えていただいている、石部や湖南市のみなさんに対して与えられた賞ではないかと思っています。本当にありがとうございました。感謝申し上げます。
☆師:田村 一二
さて今日は時間も限られていますので、私が滋賀県に、石部に来た時からのことを中心にお話してみたいと思います。
佐賀県の白石高校を卒業して、お袋の夢であった教師をめざして大学に行きました。3回生の秋の教育実習を終えるまではまあ順調な学生生活でしたが、その後に始まった学生会館の解放運動が、今日の私に大きな影響を与えました。 主力ではなかったものの、学内外の活動を続け、勉強の方は殆どしませんでした。
1970年かろうじて卒業はしたものの、その不勉強がたたって私を受入れてくれる職場はありませんでした。採用試験、入社試験も数多く受けましたが、次から次に不合格になりました。その次ぎの年、大阪のさる所で採用取り消しの通知を受けました。やっぱりか、自ら蒔いた種、自業自得、仕方がないなとあきらめかけていました。
そんな時に、すでに勤務に入ってたということもあり、若い同僚たちが立ち上がってくれました。何回かの話し合いの末、私は一麦寮の田村一二先生のところに弟子入りすることになりました。南郷から石部に移転して間なしの1971年5月、運命的なお出会いの機会を得ました。寮長舎で書き物をされていた先生に「おう、よう来てくれた」と迎えてもらいました。
たった半年間の弟子入りでしたが、とても新鮮な毎日でした。実習生という扱いではありましたが、直接障碍のある子供たちと接することはありませんでした。毎日毎日、赤茶けた敷地の緑化作業を命じられました。植木を植えたり、ガケを直したり、もう一人の先輩と、朝から夕方まで黙々と土木作業を続けました。びっくりしたのは、緑地予定の所に、芝ではなく雑草を植えたことでした。自然随順を唱えておられた田村先生ならではのことでした。
最初は障碍のある人の福祉を学ぶために実習にきたはずなのに、いつまでこんなことをするのだろうかと思っていましたが、今思えば、頭でっかちな私を徹底して自然と向き合わせることによって、健全な心身に鍛えようとして下さったのです。
そうして実習の最後の頃になると、自然と子供たちがまわりに寄ってくるようになりました。いつのまにか一緒にスコップを持ったり、一輪車を押したりする子が出てきました。指導とか訓練だとかいった一方的な関係でなく、共働・共育を身でもって覚えてもらうということだったことが後で分かりました。共働・共生をめざしてスタートしたな「なんてん」の原点は、すでにこの時に培われていたのです。
先生は、私が弟子入りした時はすでに60才でした。ちょうどその年に「茗荷村見聞記」が出版され、作業の合間に茗荷村の村是たる「賢愚和楽・物心自立・自然随順・後継者育成」にまつわる話を聞きました。そもそも知的障碍のある人たちと「混然一体」となって学び、働き、暮らそうと思っていたのだが、制度化や事業化によって、その関係は、管理する人される人、指導する人される人という殆ど一方的な関係に整理されてしまったと嘆いておられました。
「茗荷村」はそんな矛盾に対する挑戦だったのでしょう。「賢愚和楽」の説明に先生はよく「穴太衆積み」について話をされました。大津坂本から始まったこの石積みの一番の特徴は、大小、格好にかかわらずどんな石でも「捨てず、削らず、使い切る」ということであると言われました。人についてもそのとおりで「賢こい人、愚かな人、どんな人にもかげがえのない人格と個性があり、また大小にかかわらずその人にしかない役割がある、社会はその誰が欠けても成り立たない」と力を込めて話されました。
よって人は誰も水平で、優劣でも上下でもない、そしてそれを認めた時、そういう関係になった時に初めて「共に生きる」社会が実現するんだ、そのモデルとして「茗荷村」の実践をやると言われました。 その後、田村先生を中心とした「茗荷塾」で構想が固められ、「大萩茗荷村」として具体的にスタートしたのは、それから12年ほど経った1982年でした。愛東町百斉寺の山中でスタートした「大萩茗荷村」を先生は「山の茗荷村」と言われました。 そして、その前の年にスタートしていた「なんてん」を「街の茗荷村」だと名付けられました。村是の具体化はれぞれの地域や事情に合わせて多様であっていい、何よりも「水平に、共に」の実践こそが大事であるととして、最後まで私たちの後押しをしていただきました。
☆なんてん共働サービスのスタート
田村先生の所での半年間の実習の後、やはり糸賀先生の門下で、近江学園創設時の主力職員だった増田先生が率いる落穂寮で働くようになりました。特に重度の知的障碍のある人たちのクラスを受け持ちました。重度の知的障碍のある彼らと畑づくりをしたり、歩いての琵琶湖一周に挑戦したりしました。もちろん日常的な取り組みにおいてもそれなりの努力はしましたが、結論から言えば失格でした。
人間存在の根源である「尊厳」や「人権」の何たるかを殆ど理解出来ていなかったのです。教えていただいた「水平に、共に」も、まだ自分のものになっていなかったのです。
10年間の施設勤めの終わりの頃に目にしたのが、中度の知的障碍と言われていた田中君の生き生きとした働きでした。落穂寮の実習棟から近くの町工場に働きに行く彼は輝いていました。油まみれの作業着と帽子の中の彼の笑顔はとてもまばゆかったのです。ほんの少しの、そう難しくもない仕事だったのですが、彼は任された仕事を懸命にやり認められていました。自信と誇りを持った彼の姿に衝撃を受けました。
反して働く喜びを失っていた、水平に、共にどころか、ますます差別的になっていた私は決心しました。すべてを捨てて裸になってやり直そうと決心しました。「水平に、共に」を実践するには、経済的にも、社会的にも裸になって出直すしかないと考えました。
「なんてん」設立の目的は、知的障碍の重い人たちにも、企業や事業所で働くことが出来ない人たちにも「地域で普通に働く、普通に暮らす」ということを保障しようということでした。もちろんこれは大きな目標でありましたが、そこに至った背景ときっかけは私自身の心持ちを問い直すということでもありました。
1981年9月、そう言ってかっこよく旗揚げはしたものの、仕事は少なく自分の家の生活もままならないほどでした。一緒に落穂寮を辞めた山本君や塚本君にはほんの僅かの手当しか渡せませんでした。仕事がない時は三人で琵琶湖へ行って弁当を食べて帰ってきました。連れ合いさんは、「なんてん」の仕事の合間に近くの工場にパートに行って生計を立ててくれました。
そんな苦しい時に救いの手をさしのべてくれたのは、地元の業者さんでした。施設時代に少し付き合いのあった水道屋さんや建設業の人たちが、難しいことは分からんが、障碍のある人たちと懸命に草刈りや側溝の清掃をやってる姿に共感したと仕事を回したり、紹介したりしてくれました。
また営業的な応援や資金の応援をしてくれたのは、「七人衆」を中心とした「なんてんに係わる会」の人たちでした。近江学園や落穂寮の施設の職員さん、県庁や役場の職員さん、石部の町民や町外の人たちが応援してくれました。
もちろん田村先生の応援も忘れることは出来ません。施設勤めを辞めたいと報告に行ったら「よう決心したな、頑張れよ」と励ましていただきましたが、「なんてん」を始めてからも時々愚痴を聞いてもらいに行きました。なかなか仕事がなくつらいとこぼした時に「ばかもん!」と怒られました。「魚屋や豆腐屋さんだって最初から客がいる訳ではないっ。どんな商売や事業だって石の上に三年じゃ、それくらいの根性なかったら止めてしまえ!」とこっぴどく叱られました。
あてがいぶちの福祉ではダメだ、「流汗同労」共に苦労して食い扶持を稼ごう、水平に、共に働き暮らすためには、施設や作業所では限界がある、こう考えて「共働事業所」という形態でスタートしたのですが、まだまだ甘くて世間知らずだったのです。「福祉」の甘さを捨てきれないでいる自分を反省いたしました。
その後多くの失敗と、多くの応援を得て、次第に仕事も拡がり始めました。私もスタッフも、もちろん障碍のあるスタッフも、経験と共に草刈りや掃除の技術が上がりました。長い時間がかかりましたが、経営もやっと少しは軌道に乗りました。
また「共に働く」も、前よりは実感できる日が多くなりました。証拠に彼らのいないチームは、仕事が終わって帰ってきても何となく元気がありません。もちろん、彼らの仕事は量的にも質的にも大きくはなかったのですが、彼らなりの役割を他のスタッフが認めるようになってきました。どんな小さな働きも認める、出来ないところは出来る人がやるという「共働」の理解がだんだん進んできたと感じています。
☆社会的に発達する権利
さて糸賀先生は「この子らを世の光に」という思想を残されました。障碍が重く、とても今の経済思想からすれば役に立たないといった考えに、そうではない、たしかに目に見える生産行為ではないが、懸命に生き抜く様、命の営みそのものが、発達であり働きであり生産であると位置づけられました。そしてその命の営みを「光り」として認める、あるいはそれを包み込むことが出来る社会こそが「成熟した社会」、「共に生きる社会」であると結ばれています。
ところがこの考えがどうも正しく伝えらておらず、特にテレビドラマなどで、知的障碍のある人たちに対する安易な決めつけが行われているように思われます。「純粋・赤ん坊のように純真・素直・神様みたいにきれいな心・やさしい・明るい・・・」と彼らの一面のみを固定的にとらえ、一方的に伝えるドラマによって、多くの人の誤解が生まれています
知的障碍のある人たちは、たしかに私たち以上にその中味を持っています。しかしその一面だけで決めてしまってはダメだと思います。ドラマを見て大方の人たちは、すばらしい、感動した、私たちとは違う、とても私たちはああはなれないという感想を言います。つまり、やっぱり、彼らの存在は別の所にあるのです。
しかし「この子らを世の光に」の思想は、障碍のある人を包み込むとは言っても、別の存在に置くとは言っていません。彼らは知的障碍はあるが、私たちと同じ人間なんだ、私たちと同じようにきれいな心も持っているが、良くない心も持っているはずである。きれいな心の部分が大きいのは、それは社会の良くない部分に触れる機会が少なかっただけではないか、いわば汚れる機会さえ奪われてきたんじゃないかと思っています。
このことを裏付けてくれた桑原君の話です。彼は1991年に近江学園を卒園して「なんてん」で働き始めました。たしかに最初の一、二年はまさしくドラマそのものでした。朝は時間前から来てあいさつをする、休憩時間を残して仕事を始める、夕方時間が過ぎてても終わるまでやる、もちろん明るくてやさしい、誰とでも仲良く働く、夜は早めに休み、次の日に備える、本当に人の鏡みたいな毎日でした。
ところが、二、三年ほどしたら変化が見え始めました。時々遅刻する、仕事中にトラックで休む、他の障碍のあるスタッフの悪口を言う、小遣いが足りないと募金箱からお札を抜き取る、遅くまでエッチなビデオを見る・・・。もちろん全部がそうではありませんが、だんだん良くない部分も増えてきました。
考えてみれば、施設では決められた日課表で殆どの作業や生活が進められます。病気以外での遅刻やズル休みはありません。施設内には自動販売機もなく、勝手にお金を使う機会もありません。よって他人のお金を取る必要もありません。作業や生活の大部分は公平な処遇が行われていて、他の人との利害関係も殆どなく悪口を言う必要もありません。いわば良くない心をもったり、行いをする機会もない訳です。
ところが彼は施設を出て、地域の中で普通に働き、暮らしながら、その良くない部分も学んでいきました。地域の中にある「なんてん」や「グループホーム」で世間の善し悪しを学んだのです。
もちろん「この子らを世の光に」という思想は大前提ですが、地域で生きる、社会で生きるということを考えていけば、次は良くない部分も獲得していく、俗化していく、汚れていくということも保障していく必要があると思います。
「汚れる権利」といえば過激ですが、言い換えれば多面的に発達する権利、社会的に発達する権利を保障するということです。私たちと同じように、清濁の両方を獲得し、葛藤し、反省をしていくことを保障するということです。障碍のある人たちにもそのことが認められなければ、いつまでたっても「普通の人」、「普通の暮らし」にはならないと思いますし、もちろん「共に生きる」もウソっぽいものになってしまうと思います。
☆新しい働き方、おとしよりの介護の場で働く
私が手にしているこの冊子は知的障碍のある人たちが、おとしよりが通う小規模デイサービスや宅老所等の、いわゆる介護の場で働く様子をまとめたものです。
現在滋賀県内の介護の場で働く知的障碍のある人たちは、31名になっています。数はまだまだ少ないですが、冊子のサブタイトルのように、知的障碍のある人たちの新しい働き方として少しずつ注目を集めてきております。
モデルはダウン症による障碍のあるけい子さんです。近江学園を卒園して1991年の3月に「なんてん共働サービス」にやってまいりました。最初は清掃班で働いていましたが、理解力の弱さと眼の悪さが原因でだんだんうまくいかなくなっていました。
一方「なんてん」も、1998年頃から、縁があっておとしよりの人たちの介護にも関係するようになってきました。そして2000年の3月に、「(株)なんてん共働サービス」の二つ目の事業として「共生舎なんてん」を立ち上げました。「なんてん共働サービス」同様"小規模・地域密着・多機能・双方向"というスタイルでおとしよりの人たちの地域での生活を支援していこうという取り組みです。
立ち上げの準備の段階から、私はここでけい子さんに働いてもらおうと思っていました。「なんてん共働サービス」の清掃班で働きにくくなっていたという事情もあるのですが、何か直感的におとしよりとうまくいけそうではないかと思ったのです。小さいときからおばあちゃんに育てられた背景や、「なんてん共働サービス」のシルバーグループとのやりとりから、何かやってくれる、何か役割を果たしてくれるんではないかと感じたのです。
また、ダウン症を抱えた人たちに大方共通する、明るさや人なつっこさ、のんびりさやおおらかさ、また自然さやマイペースさなどは、年とって多くの物を失い、不安と混乱を強められている、特に認知症のおとしよりの大きな力になるんではないかと考えました。
彼女が実際働き始めて間なしに、当時の滋賀県障害福祉課のさる職員さんが「共生舎」にやって来ました。県で取り組む「緊急地域雇用創出事業」なのに、障害福祉課からは何で出ないのかと知事からお叱りがあったそうです。私の方から、けい子さんの働きの様子やおとしよりに与える期待をお話したら「そうですか、それならいっそのこと3級ホームヘルパーの養成と就労の開拓を事業化しましょう」ということになりました。
こうして始まったのが「知的障害者ホームヘルパー養成研修・就労モデル事業」で、その後滋賀県と受託の「滋賀県社会就労事業振興センター」と「街かどケア滋賀ネット」の協働が今日まで続いています。
さてそのけい子さんの働きです。「共生舎」には毎日だいたい8人~9人のおとしよりがやってきます。けい子さんは月、水、木、土曜日の出勤ですから、特にその曜日においでのおとしよりは彼女と会うのを心待ちにしておられます。朝車から降りられると「けいちゃん、おはよう!」と声をかけられます。殆どの人が認知症による記憶障碍を持っておられるので人の名前などはなかなか覚えられないのですが、何故かみなさんけい子さんの名前は覚えておられます。驚くことに、彼女が病気で休んだりすると「けいちゃん、まだ休んでるのか?」とおっしゃられます。他のスタッフなら目の前に居ても覚えてもらえないのに、姿も見えないけい子さんの名前を覚えておられるのは不思議です。
おやつの時間に彼女がお茶をお盆に入れて配ります。「けいちゃん、ほらこっち通り、こぼさんようにな」とか「これっ、人の前を通る時は何て言うんやった!」と声が掛かります。みなさん彼女が気になって仕方ないのです。この時のおとしよりは認知症で介護を受けている人ではなく、けい子さんの世話役になっておられるのです。
まだ暗いうちから起きるけい子さんは、お昼過ぎになるとおとしよりと一緒に手芸をしながらコックリコックリと居眠りを始めます。「けいさんっ!あんたはスタッフやろ、おとしよりと一緒に居眠りしてどうすんのっ!」と他のスタッフから声が飛びます。怒った彼女はプイッと玄関から飛び出します。「行ってしもうたで、早よあんたら追いかけんかいな」とか「いやこれはけいちゃんが悪い!」と声が上がります。
この他にも彼女をめぐっていろんな場面で、おとしよりの頭と気持ちは動きます。おとしよりは他のスタッフから介護を受けながら、けい子さんを世話する支援者になって、ついでにリハビリテーションもやってしまうことになります。
また彼女が居ることによって、場の雰囲気が和らいだり、明るくなったり、にぎやかになったりと、目に見えるものではありませんがその働きは実に大きいものです。「なんてん共働サービス」と同じく、ここでも彼女が休みの日は何か物足りない感じになっています。
きっと、彼女のおとしよりとの自然な向き合いと自然な振る舞いが、みなさんに安心感と信頼感をもたらすのでしょう。また彼女の十分でない仕事ぶりが、おとしよりの「私が何とかしてやらなくちゃ」という気持ちを高めるのでしょう。 これらの様子は、他の知的障碍のある方が働いている事業所でも殆ど同じ内容で取り上げられています。このことからすれば、もっと障碍の重い人たちだって介護の場で働けるという可能性が出てきます。
☆迷惑をかけることで人が、地域が変わる
近江学園などの施設が石部に移転してきて、もうすぐ40年になろうとしています。どの施設も、南郷の時と同じく、部屋や施設の門に鍵なんかかかっていません。誰でも出入り自由です。障碍はあっても少しでも人間的な生活を送ってもらうための施設という位置づけだったからです。
当然、障碍のある子供たちもスキを見つけて施設の外に出て行きます。職員が気づいた時はすでに時遅く、下の東寺や西寺のお宅に上がり込んで冷蔵庫を開けたり、お菓子屋さんの商品を失敬したりということもありました。
そもそも充分な地元合意があった訳ではなく、しかも障碍のある人たちのことを知ったり理解したりまで至っていなかった住民の人たちはビックリで、怒りの電話がかかってきました。そのたびにあわてて職員が伺い、平身低頭お詫びをしました。
その後、地元の運動会に参加したり、学校のPTAを一緒にやったり、施設と学校の交流が始まったりして少しづつ理解が進んでいきました。散歩に出た子供たちに声をかけてくださったり、施設の子が一晩も二晩も見つからなかった時には、地元の消防団の人たちが親身になり捜索して下さるようになりました。
一方「なんてん」や地元の企業や事業所で働く人が暮らす「グループホーム」を始めてからも、ある意味では施設以上にいろんなことがありました。目の悪いけい子さんが道に迷って余所の家の玄関に座り込んだり、ある人は平和堂でチョコレートを拝借したり、またある人は家出をしたりしました。
しかしもう殆ど怒りの声は聞こえなくなっていました。「もしもしなんてんさん、けい子さん預かってるでー、今は茶飲んでもらってるけど、もう少ししたら迎えに来てあげてや」と電話がかかってきます。迎えに行くと老夫婦がニコニコしながらけい子さんを見送ってくれます。
平和堂で障碍のある人が一人で、あるいはグループで買い物するのは当たり前になっていて、それを振り返る人は殆どいません。レジでまごついているのをとがめる人もいません。逆に「あわてんでいいで」と声がかかる時があります。
もちろん石部のみんながこうではありませんが、ああ暖かい街になってきたなあと思うこの頃です。施設も「なんてん」もNPOも、リスクを恐れずに、地域に出てふれあい、付き合うことを40年間実践してきた結果だと思っています。
また地元の人たちには大変申し訳なかったのですが、迷惑をお掛けした分理解が進んできたと思っています。住民の人たちに迷惑をかける、世話になることによって理解が進み、また住民の人もそれによって「自分たちも役に立ってる」という実感を持ってもらってると考えています。
これまでの経験から、ノーマライゼーション、共に生きる社会は、専門的な取り組みだけでは決して実現できないことが分かってきました。「共に生きる街づくり」は、障碍のある人たちのおもいやつもりを大事にしながら、住民と専門家が一緒になって支えて初めて実現するものです。
どんなに障碍が重くても主体的に、社会的に生きる権利がある、発達する権利があると説かれた糸賀先生。障碍のある人も、私たちと同じように、街で村で、仕事や役割を持って暮らすべしと実践を続けられた池田先生。そして最後まで水平に、共にと訴えられた田村先生。
思えば知らず知らずのうちに、この三人の先達の導きでここまでやってこれました。しかし、まだまだ道半ばです。 「障碍があっても 認知症になっても 住み慣れた所で みんなと一緒に 助け合って いつまでも自分らしく働き そして暮らし続ける」、そんな地域や社会に向かって、これからもみなさんと共に歩み続けたいと思っています。
最後になりましたが、私たちを導いて下さった、今は亡き糸賀先生、田村先生、池田先生、そして多くの先輩たち、今回の受賞にあたってご尽力いただいた「糸賀一雄記念財団」の関係者のみなさん、広くご支援をいただいた湖南市や滋賀県の市民・県民のみなさん、行政関係のみなさんに厚く御礼を申し上げます。
なんてん 溝口 弘