2007.8.11
8月9日、長崎原爆の日、やっぱり暑い一日であった。
38年前、夾竹桃で囲まれた平和公園での祈念式典には見向きもしないで、学内活動に参加していた自分を思い出している。平和祈念といえども体制側の行うセレモニーとしてしか位置づけず、参加どころか反対の対象としていた自分の未熟さが反省させられる。
原爆で亡くなった人たちの無念さ、生き残りはしたが被爆の後遺症で苦しむ人たちの訴え、それを支える家族の人たちの努力を見聞きしたにもかかわらず、充分におもいを共有できなかった責任を痛感している。若かさ故ということで逃げられない、大変重要な問題だと反省している。
さて、今の政治状況を見ていると、同じような過ちが繰り返されているようでならない。20代、30代の若手、40代の中堅政治家たちの平和に対する理解の薄さがとても気になる。戦争体験のある政治家たちが次々と没していく中で、着々と改憲へ向かっての準備が進められていく。
被爆地長崎での見聞きの前に、私には戦争に関するいくつかの記憶や経験がある。 かくいう私も昭和22年生まれで、直接には戦争を知らない世代の一人である。しかし白衣を着た傷痍軍人の方のアコーデオンや、砂利の国道を走るアメリカ軍のジープの像がうっすらとした記憶として残っている。そういう意味では'戦争見聞き世代'と位置づけることができるだろうか
また、これは私が物心ついた頃、戦後6、7年頃の経験である。私の田舎では男衆は'よいやー'(寄り合い)、女衆は'おちゃごう'(茶講)と称して、主に農閑期に、同世代で定期的に集まり、酒を飲みながら席を共にする行事があった。つらい百姓仕事の慰労と、集落内の'もやい'(舫)仕事の円滑な遂行が目的ではなかったかと考えている。
'よいやー'は各人の家で持ち回りで開かれる。おそらく大人たちの間に交じって、めったにないごちそうをよばれながら話を聞いていたのであろう。10人前後の男衆の殆どが戦争体験者で、かつ下級兵隊の身分の者であった。地域内の同世代には当然戦死した人もいて、その'よいやー'はつまり幸運な生還者たちの集いでもあったのである。
稲の生育がどうだの、もやい仕事の日程は如何にといった話の間に、どんどん盃交わされていく。そして酒が進めば、毎回戦争の話題がその場を独占した。
腹が痛がる支那人に薬とだまして歯磨き粉を飲ませたとか、命令に従わない現地人を銃じりで叩いたとか、黙秘を続ける捕虜に銃剣を突きつけたとか、大きな声で自慢げに語り始めるのであった。話を聞いた男たちも手を叩いて笑いながら場を盛り上げた。
私の親父ほか、当時の殆どの男衆が死んでしまって本当の気持ちは分からない。終戦からまだ6,7年、戦争という異常な精神状況の連続だったのか、はたまた生還してしまった屈辱と喜びの葛藤だったのか、さらには自らの罪の隠蔽だったのかは測りようがない。ただ男衆の殆どが、自慢話やバカ笑いほど単純なおもいではなかったであろうと思い返している。
多分、私たちの世代、特に団塊初期の世代の人たちの中には、このような経験を持っておられる人もおられると思う。 危うい、若い政治家たちへ向けてだけでなく、自分の子や孫たちにも、戦争の悲惨さとくだらなさを伝え、"平和"の大切さをつないでいかねばならない。'戦争見聞き世代'、団塊の世代に課せられた、もう一つの大事な役割である。